『カウンセラーとしての考え』



 ここでは、私のカウンセラーとしての考えを書いていこうと思います。
いろんな考え方をもっている方がいると思いますが、あくまでも私個人の考え方です。

 カウンセラーを目指している方々は、様々なことを勉強してきたと思います。
しかし、そのどれを取ってみても、学んだこと全てのことがらは、私たちが日常体験
していることだと思っています。
 よく考えてみると、それは非常に常識的なものであるかもしれません。
 しかし、私たちが実際問題に直面した時、それがなぜ起こったか、いかにそれを解
決すべきか、また、それの本当の姿(真意)がどこにあるかなどと考えると、実際と理
論とがなかなか適切に繋がらないことが多いと思います。
 それを理解するためには、いかに客観的な立場に立って、実際と理論をまとめるこ
とができるかという概念の把握が重要だと思っています。
(概念とは、いろいろな考え方の中に共通して流れている要素を抽出して、その一群を
構成するものごと全てに当てはまるような、考え方の新しい要素を言います。)

 しかし、私たちはその中で、『これが客観的な方法であり、それにはこのような考
え方を打ち破って、このような立場から判断するようにしなければならない』と言っ
たり、また、『その方法は分かった、こうすればいいんだ』と思っても、そこにはす
でに一つの壁が立ちふさがり、その中に自分が入って判断し、理解し、それを適応さ
せてしまうことがあります。

 その最も良い例としては、『相対性理論』だと思っています。
『相対性理論』については、相対論を抜きにして考えることはほとんど不可能だろう
とされています。
この理論は、今から約90年前にアルベルト・アインシュタインによって発表されたも
のです。
 よく、私たちは、上下,左右,遠近,早い遅いなどの言葉を用い、それに対する概
念を持っています。
そこには、上があるから下があり、右があるから左があるなど、それらの事物に関し
ては、必ずと言って良いほど左右両相性があると考えられています。
 しかし、これだけが相対性を表わすものではありません。
この両相性だけで相対性を判断しようとすると誤りをおかすことになります。
 つまり、上下と言っても、左右と言っても、遠い近いと言っても、また、早い遅い
と言っても、どちらかに向かって上か下か、右か左か、また、どこに対して遠いか近
いか、また、何に対して速いか遅いかでなければ、そこに言い表した言葉が無意味に
なるからです。
 ここに、相対性の大切な考え方が入ってこないと、理解に苦しむことになります。
 相対性に対しての考え方の主要点は、右があるから左があるということばかりでな
く、「どちらに対して」というところに、その概念を見出すことが重要です。
 右側と言っただけでも、そこに「東に向かって」という対象があれば成立すること
になります。

 しかし、よく私たちは、ただ単に、右,左,上,下というような無意味な言葉を用
いたり、また、用いられたりしていることがあります。
 私たちは、それを日常に得た経験とか、その時の自己における想像ゲシタルトによ
って、適当に判断し、理解したり、それを用いたりすることがあります。
 しかし、そこには往々にして大きな誤りをおかしている場合があります。
つまり、それは誤解とか、失敗などを分析した時に見られる現象でしょう。
 確かに私たちの認識の場においては、この相対性の理論はあらゆる場面に展開され、
それはあたかも、その全てが相対性に帰結してしまう様相を呈しています。
その証拠として、私たちがいかにその壁を乗り越えようと思っても、すでに、そこに
は相対性という次の壁が待っているという状態です。

  そこで、実験的に、この相対性に負わない何者かがあるかと考えてみましょう。
きっと、考え付いたと思ったとき、すでに、そこには相対性という壁があることを見
るでしょう。(つまり、相対性の上で結論を出しているということです。)
 しかし、私たちは、ここで一つの概念を学ぶことが出来たわけです。
 それは何かと言うと、このような状態、すなわち、壁の外にも、また、同じ壁があ
るという認識です。
さらにもう一つは、その壁をいかにしたら打ち破れるかという問題をはっきり理解し
たことです。

 ここで、この認識を一般論に当てはめてみます。
 皆さんは、相対的な考え方の壁と言えば、客観的になってその壁を認識することが
できますが、自己の経験や、経験から得た主義・主張の壁というものは、なかなか認
識することが困難であり、また、その壁を打ち破ることが難しいです。
 そこで、これらの壁を打ち破るには一体どうしたら良いかということになりますね。
この概念は、相対性の壁においても、自己の場における壁においても、共有性を持っ
た概念の一つです。

 私たちは、まず、自分の現実の世界から飛び出して、私たちが想像することもでき
ないような世界を考えてみましょう。
そう言っても、すでにそこには「考えられる」という壁が立ちふさがっているように
思われます。
そこで、その壁があることを認識することにしましょう。
そうすれば、その壁がはっきりするので、私たちは、その壁の外にいると認識すれば
よいです。

 「行動的環境場面」・「物理的環境場面」について学ばれたことと思いますが、そ
こには、必ず何かがあるという認識の上において考えられてきた場面だと思います。
 唯物的に、無いといっても、そこに「無」の存在を認めなければなりません。
しかし、本当に何も存在しない世界が果たしてあるでしょうか。
この世界をカントの例に当てはめてみると、「純粋の学理」や「純粋の理性」やpure
resonと言うべきものであるだろうし、東洋哲学的思考を用いれば、「真如の世界」す
なわちabsolute「絶対」あるいは「無限」とも言うべき世界、仏教の言葉を借りるとす
ると、「無色界定」とも言うべき世界を指すものです。
この世界を、「無」の存在と分けて、「空間」と呼ぶことにします。
物理学ていう空間とはその意味が異なります。
 この空間意識こそ、すべての壁を乗り越えた基礎概念の出発点となるものだと思われ
ます。
 そこには相対性も無ければ、経験の壁も無い、また、認識も無い世界だと考えられま
す。
まず、この世界に自己を置くという概念の把握が、そこに拡大された客観性をもたらす
ことになるでしょう。
そこで、この立場から、私たちがいるゲシタルトを眺めてみましょう。
このゲシタルトは、有、無入り交わり、各種各様な力や法則によって結ばれ解かれ、そ
れが限りなく続いていくでしょう。

 しかし、その現象のいずれを取ってみても、そこには必ず一つの法則性があり、そこ
にはいろいろな条件というものが存在していることに気付くでしょう。
 それは、私たちに次のような基礎的な概念を教えてくれるでしょう。
「何事も解決するということは、そこに一つの条件と言うべき定義が存在しなければな
らない。この定義こそidea(思考,観念)あるいは、思考力の中心的な説明の基本理念と
なるものである。」

何か解決した時、または、結論が出たとき、あるいは、問題が起こった時には、必ずそ
の解決にいたるまで、または、問題が起こるまでに、種々の動かすことの出来ない条件
というものが成立していなければ解決もしないだろうし、問題も起こることができない。
 この定義が、思考とか観念という問題、あるいは、思考する力などを説明しようとす
る場合の、最も中心的な基礎的なものとならなければ、何ものをも解決することができ
ないでしょう。
 つまり、この考え方こそ、また、一つの条件であり、基礎的な考え方であると思われ
ます。
 そこで、何が条件であり、何が基礎的なもの(条件)となるか、一般に、私たちはそれ
を無意識的に用いていることがあります。
しかし、それが何であるかは、明瞭につかむことができません。
そこで、これらを知るためにには、根本的な問題から出発して、基礎的な概念を把握し
ておかなければ、それを知ることができないでしょう。



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